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恩田川ウォーク

 

629日、いつものウォーキングメンバーと恩田川を歩いてきました。

前回(6月1日)が「鶴見川ウォーク」ということで、鶴川から恩田川との合流点までを歩いたので、今度は、恩田川の上流端から鶴見川との合流点までを歩こう、ということになりました。

 

鎌倉街道上ノ道

メンバーのアクセスを考え、今回は集合場所を町田郵便局(旭町3-2-22)とし、午前9時に出発しました。

恩田川の上流端に向かうため、神奈川県道・東京都道52号相模原町田線(以下「都道52号線」)を菅原神社方面に向かって歩いていきます。サン町田旭体育館(旭町3-20-60)の先の交差点を左折し、すぐにまた右折、突き当たった左右の道が、原町田から続く「鎌倉街道上ノ道」(以下「上ノ道」)です。

上ノ道は、市内では原町田、本町田、小野路を通ります。原町田から本町田へ続く道筋は、都道52号線敷設の際に分断されましたが、その先、菅原神社の裏手を北上するルートは、今なおどこかに古道の面影が残されています。

 

左)原町田(後方)から続く上ノ道(左側の道)。坂を上っていくと右の写真のように「行き止まり」となります。

右)「行き止まり」の先は、都道52号線が左右に通っています。

 

左)都道52号線を渡って反対側(北側)から見た写真です。赤丸を付けたところが先ほどの「行き止まり」の地点です。

右)その「行き止まり」の地点と手前の道(写真の下側)は、かつて上ノ道として結ばれていました。手前の道を反対方向に北へ向かって歩くと、菅原神社の裏手に到着します。

 

井出の沢古戦場

上ノ道をしばらく歩くと、菅原神社の境内林が見えてきます。こちら側は神社の裏手にあたり、入口から境内に入ると、「史蹟 井出の澤」と書かれた石碑と案内板があります。この辺りは、鎌倉時代と室町時代の狭間に、北条時行(ほうじょうときゆき)と足利直義(あしかがただよし)が激突した古戦場跡とされています。

 

その案内板には、以下のような説明がありました。

>井出の沢古戦場は、南北朝時代に発生した中先代の乱の古戦場です。
 元弘3年(1333)にはじまった後醍翻天皇による建武の新政は、武家を軽んじたため各地で武家の不満が高まりました。そのような中、かつて鎌倉幕府の執権を務めた北条氏の得宗である高時の子時行が、建武2年(1335)、反乱の兵を挙げました。これが中先代の乱です。信濃から鎌倉奪還を目指し南下した時行の兵は、この井出の沢の地で足利尊氏の弟直義によって迎撃されました。激戦の末、時行の軍は足利勢を破り鎌倉を占領しましたが、わずか20日余りで足利尊氏・直義の軍に鎮定されました。
 現在、菅原神社、町田市立体育館及び市営グラウンドのある場所が、井出の沢古戦場跡と伝えられています。

菅原神社

さて、古戦場跡で歴史ロマンに浸った後は、菅原神社(本町田802)の参拝です。

 

参道入口にある案内板によると、その由緒は「室町期の永享年間(1429~1441年)、本町田村の大沢左近正次が、先祖の大沢七郎正純が鎌倉期の元応年間(1319~1321年)に京都・北野天神へ詣でた折に得た天神像をこの地に奉安。その後、子孫の大沢玄蕃が江戸期初頭の寛永7年(1630)に新たに天神像を奉安し、本町田の鎮守として創建された」とあります。

 

 御祭神は菅原道真(承和12年(845)~延喜3年(903))で、町田天満宮(原町田1-21-5)、南大谷天神社(南大谷4-36-1)とともに町田三天神の一つとして多くの人々から崇敬されています。

菅原神社のあった本町田村は、天正10年(1582)に分村が行われ、本町田村から原町田村と大谷村が誕生しました。そして、原町田村では町田天満宮が、大谷村では南大谷天神社がそれぞれ創建され、菅原道真が祀られたのです。

 

ウォークをした6月29日は「夏越の大祓」の前日でしたので、境内には茅の輪が設置されていました。われわれも順番に茅の輪をくぐり、半年間の罪と穢れを祓い、無病息災をお願いしました。 

 

 恩田川上流端 

恩田川滝の沢源流公園(本町田1830-1)を水源とする長さ約13kmの一級河川で、横浜市緑区青砥町と同市同区中山の境界で鶴見川に合流します。

 

今回のウォークは、ここ「一級河川 恩田川 上流端」(本町田918-1)から恩田川を下っていきます。

ちなみに、この「上流端」という言葉ですが、一級河川(※)として、国土交通大臣(恩田川の場合は国土交通大臣から委任された東京都知事)が管理する上流部分の最も端を意味します。なお、これより上流側の流域は、準用河川となり、町田市の管理となります。

 

※ 河川の種類は河川法(昭和40年(1965)施行)によって、一級河川二級河川、さらには準用河川に分類されます。一級河川は、国土保全上または国民経済上、特に重要な水系の中から政令で指定した河川で、国土交通大臣が指定したものをいいます。管理は、原則として国土交通大臣が行うことになっていますが、一定の区間について、都道府県知事に委任する場合もあります。二級河川は、上記以外の水系の中から公共の利害に重要な関係がある河川として、都道府県知事が指定・管理するものです。上記以外の河川で、市町村長が指定・管理するものを準用河川といいいます。

 

 南大谷天神社

前述のとおり、南大谷天神社(みなみおおやてんじんしゃ)も、町田三天神の一つで、御祭神は菅原道真です。

 

参道入口にある案内板によると、その由緒は「正保2年(1645)、五十嵐次郎左衛門が大谷村の村長となり、御神像をつくらせ、天満宮を鎮守として創建。享保5年(1720)には、地頭の伊勢守平正清の家人(名主)であった五十嵐伝兵衛敬孝が村の代表として平正清とともに京都に行き、御神像を装飾させた」とあります。

 

境内には、別当寺であった南松寺(なんしょうじ)の遺構の一つ、観音堂も残されていました。

 

 成瀬城跡

 成瀬城跡は恩田川右岸の高台にある「城山公園」(南成瀬3-16-3)として残されています。

 

町田観光ガイドブック(町田市観光コンベンション協会)によると、成瀬城は「過去2回にわたる発掘調査で宋銭、銃弾などが出土し、中世末期の城郭であることが判明。その位置関係から見て、小机城主・北条氏綱(ほうじょううじつな)(長享元年(1487)~天文10年(1541))の城代・笠原信為(かさはらのぶため)(生年不詳~弘治3年(1557))の支城と推定されている」と説明されています。

 

公園内には夏草が生い茂り、まさに「夏草や兵どもが夢の跡」といった感じでした。芭蕉はこの句を元禄2年(1689)旧暦5月13日(新暦6月29日)に奥州平泉の高館(たかだち)で詠んだといいます。われわれがウォークしたこの日も6月29日、とてもご縁を感じました。

 

 東京都と神奈川県との河川管理境界

町田市はここ(成瀬6-12地先)で終わり。ここから横浜市青葉区恩田町、恩田川の名称由来の場所となります。

 

 鶴見川との合流点

左)恩田川は写真の左側から流れてきて、前方から流れてくる鶴見川と合流します。6月1日のウォークは鶴見川左岸(写真の右側)を歩いて合流点に達しました。

右)合流点付近にある案内板。今回は恩田川右岸(左の写真の手前)を歩いて合流点に達しました。このような案内板が川沿い各所に設置され、合流点からの距離が表示されていたので、とても励みになりました。

 

至福の一杯!

今回もよく歩きました。午前9時に町田郵便局を出発し、恩田川沿いを約15km、定番となってきた、ここ鴨居駅前の居酒屋に着いたのが午後1時半。合計4時間半、約2万歩のウォークとなりました。

この日は最高気温31℃の真夏日。前回のウォークよりもしんどかったですが、ビールを一口飲んだ瞬間、ああ、やっぱりこの一杯のために歩いていたんだなあ~、としみじみ感じました。(TT)

 

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